誰もが「ミラグラフィア」を持っている。でも、誰一人としてそれを見たことがない。
私たちの世界では、人は誕生と同時に目に見えない「ミラグラフィア」という光の粒子を纏うという。それは、その人の感情や記憶、思考を映し出す不思議な現象だ。ただし、本人以外のすべての人がそれを見ることができる。
「ねぇ、茜のミラグラフィア、今日はすごくキラキラしてるね」
同級生の美咲が、教室に入ってきた私にそう声をかけた。私は困ったように笑う。自分では見えないのだから、どう反応していいのかわからない。
「そう? でも、私、今日は特に何もないよ」
「うそうそ! 絶対何かあったでしょ?」
確かに、昨日、好きな人から連絡先を教えてほしいと言われた。けれど、そんなことで私の周りの光が変わるなんて…。
ミラグラフィアは、科学的には「感情粒子による光の屈折現象」と説明される。人の感情や記憶が、目に見えない粒子となって空気中を漂い、それが光を屈折させることで、その人の周りに様々な色や模様を作り出すのだという。
面白いことに、赤ちゃんは自分以外の人のミラグラフィアを見ることができない。その能力は、通常3歳前後から徐々に発達し始める。そして、自分のミラグラフィアだけは、一生見ることができないのだ。
「先生、質問です」
放課後の補習授業。物理の藤田先生は、黒板にミラグラフィアの公式を書いていた。
「どうした、中島君」
「なぜ、人は自分のミラグラフィアを見ることができないんですか?」
私も思わず耳を傾けた。誰もが一度は考えたことのある疑問だ。
「良い質問だね」
藤田先生は、チョークを置いて振り返った。
「実は、これには深い意味があるんだ。もし自分のミラグラフィアが見えてしまったら、人は常に自分の感情を意識しすぎてしまう。それは、まるで常に鏡を見ながら歩くようなものだ。自然な感情の流れが妨げられてしまうんだよ」
教室に小さなどよめきが起きた。
「でも先生」今度は私が質問した。「他人のミラグラフィアは見えるわけですよね。それなら、他人の感情を知りすぎることにならないんですか?」
「その質問にも答えがある」
藤田先生は優しく微笑んだ。
「ミラグラフィアは、詳細な感情を表すわけではない。あくまで、その人の心の『色』や『形』を大まかに映し出すだけだ。だから、相手の気持ちを理解するには、やはり言葉を交わし、表情を読み取る必要がある」
その日の帰り道、私は空を見上げた。夕暮れ時、街にはたくさんの人々が行き交い、それぞれが異なる色や形のミラグラフィアを纏っていた。悲しみに沈む紫色、喜びに満ちた黄金色、焦りを帯びた赤色…。
「茜!」
後ろから声がした。振り返ると、昨日連絡先を訊いてきた佐藤君が走ってきた。
「あのさ、明日の放課後、時間ある?」
私の心臓が大きく跳ねた。その瞬間、周りにいた人々が微笑ましそうに私たちを見つめているのに気がついた。きっと、私のミラグラフィアが何か特別な反応を示したのだろう。
「う、うん。あるよ」
「じゃあ、よかったら図書館で一緒に勉強しない?」
帰宅後、母が夕食の支度をしながら笑った。
「今日の茜は特別ね。春の花が咲くような、そんなミラグラフィアよ」
「もう、ママってば」
私は頬を赤らめながら、自室へと逃げ込んだ。
その夜、日記を書きながら考えた。私たちは、自分の心を直接見ることはできない。でも、周りの人々は、その人らしさや感情の機微を、光となって漂う粒子を通して感じ取ることができる。
それは不便なことなのだろうか? いや、むしろ素晴らしいことかもしれない。なぜなら、私たちは常に誰かに見守られ、理解されているということだから。
枕元の窓から、満月が輝いていた。月の光に照らされた街並みは、無数のミラグラフィアで彩られている。それは、まるで星空のよう。
人々の感情が織りなす光の星座。
私は、自分のミラグラフィアがどんな光を放っているのか、永遠に知ることはできない。でも、それでいい。なぜなら、私の心は、大切な人たちの目の中で、確かに生きて輝いているのだから。
明日は図書館で佐藤君と勉強する。きっと、私のミラグラフィアは、また新しい色を見せることだろう。それを見た周りの人たちは、きっと微笑むに違いない。
そう思うと、少し恥ずかしいけれど、どこか嬉しい気持ちになった。
窓の外では、夜空に浮かぶ月が、静かに地上の無数のミラグラフィアを見守っていた。
(了)