言迷

私は今日も言葉を拾う。

この街には、誰かが落とした言葉が転がっている。文字通り、物理的な形を持った「言葉」が。

例えば、道端に落ちている「ごめんなさい」は、濃い青色の小さな立方体だ。拾って耳に当てると、誰かの申し訳なさそうな声が聞こえてくる。公園のベンチには「好きです」という薄紅色の球体が置き忘れられていて、触れると少し温かい。

道路脇の側溝には「もう終わりにしよう」という灰色の平たい言葉が詰まっていることもある。それは冷たく、持つと手が震える。

私たちの街でこの現象が始まったのは、去年の夏からだ。最初は誰も気付かなかった。言葉は見る人にしか見えないからだ。私は、この街に住む数少ない「言葉拾い」の一人である。

「また新しいのが落ちてたよ」

同じ言葉拾いの山田さんが、喫茶店で私に小さな箱を差し出した。開けると、中には「頑張って」という黄緑色の三角形があった。

「ありがとうございます」
私は大切そうにそれをバッグにしまった。
「でも、最近増えてますよね。落ちている言葉」

山田さんは静かに頷いた。彼女は50代後半の主婦で、私より10年以上早くからこの活動をしている。

「人々の心が不安定になってるのかもしれないわね」
「ええ、かもしれません」

私は窓の外を見た。行き交う人々は皆、何かを急いでいるように見える。スマートフォンを見ながら歩く人、誰かと電話をしている人。けれど、その会話の欠片が、時々形になって落ちていくのだ。

「あ、そうそう」
山田さんが思い出したように言った。
「市役所から連絡があったわ。来月から、言葉の回収ボックスを設置するんですって」

「えっ?」
私は驚いて声を上げた。
「でも、言葉は拾える人しか見えないのに…」

「そう。だから私たちに協力してほしいって。回収した言葉は、研究施設で調べるんですって」

私は複雑な気持ちになった。確かに、この現象は科学的に解明されるべきかもしれない。でも、言葉には誰かの大切な思いが込められている。それを研究材料にしていいのだろうか。

その日の夕方、私は普段の経路を歩いて言葉を探していた。すると、駅前の横断歩道で見慣れない形の言葉を見つけた。

「生きていてごめん」

黒く、不定形で、触れると冷たい。私は急いでそれを拾い上げた。耳に当てると、若い男性の声が聞こえた。震える声。泣いているような声。

私は急いで周りを見回した。人混みの中に、その声の主がいるかもしれない。でも、誰が落としたのかは分からない。

家に帰ると、拾った言葉たちを専用の棚に並べた。「ありがとう」「お大事に」「また会おう」…。温かいものから冷たいものまで、色とりどりの言葉たち。その中に、今日拾った「生きていてごめん」を置く。

私たち言葉拾いには、暗黙のルールがある。拾った言葉は、必要としている人の元に届けなければならない。でも、この言葉は誰に届ければいいのだろう。

次の日、私は早朝から街を歩いた。すると、駅のホームで彼に出会った。

20代前半くらいの青年。制服姿で、線路の方をじっと見つめている。その足元に、また言葉が落ちていた。

「さようなら」

私は迷わず声をかけた。
「これ、落としましたよ」

青年は驚いたように振り返る。そして、私の手の中の「さようなら」を見て、目を見開いた。

「見えるんですか?」
「ええ。私は言葉拾いなんです」

青年は困惑したように私を見つめた。そして、小さな声で言った。
「昨日の、あの言葉も…?」

私はバッグから「生きていてごめん」を取り出した。青年の目に、涙が浮かんだ。

「実は…」
彼は少しずつ、話し始めた。家族のこと、仕事のこと、限界を感じていることを。

私は黙って聞いた。そして、棚にしまってあった「頑張って」を取り出した。
「これは、きっとあなたに届けるべき言葉です」

その言葉を手にした瞬間、青年の表情が少し和らいだ。

それから一週間後、市役所の回収ボックスが設置された。でも、私は言葉を入れていない。だって、言葉には必ず届けるべき場所があるから。

今日も私は街を歩く。誰かの想いが形になった言葉を探しながら。そして時々考えるのだ。私たちが拾っているのは、本当に「落とした」言葉なのだろうかと。

もしかしたら、言葉たちは誰かに拾われることを願って、自分で転がり出てくるのかもしれない。届けたい人がいるから、私たちの目に見える形を選んでいるのかもしれない。

夕暮れの街に、また新しい言葉が落ちていく。私はそっと拾い上げる。この言葉も、きっと誰かを待っているのだから。

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